28 April 2011

"エル・クラシコ" 第三戦


今月16日に行われたリーガ・エスパニョーラでの"エル・クラシコ"対戦を
レポートしたものの、第二戦をすっ飛ばして第三戦のご報告となってしまった。

というのも、20日に行われた"エル・クラシコ"第二戦、
スペイン国王杯決勝は、1−0でレアル・マドリーが勝利。
バルセロナはそれはそれは静かな夜を迎えたのであった。

そこで迎えた27日の第三戦。
今回はチャンピオンズリーグ(CL)準決勝の第一戦目。
レアル・マドリーの本拠地であるサンチャゴ・ベルナベウでの対戦となった。
スペイン国王杯は国内のカップ。CLはヨーロッパのタイトル。
決勝へ進むため、アウエーゲームとはいえこれを落とすわけにはいかない。
バルセロニスタの応援にも気合いが入る。

私は友達の家でのんびり観戦したわけだが、
バルで観戦した友達に写真を送ってもらった。
バルの前に席を陣取る人々。むっつりと試合の行方を見守っている。


そして試合も中盤を過ぎた頃。座ってられないのね。
分かりづらいけど、ビール瓶が中を舞っている・・・。

試合の流れは後半、レアル・マドリーのペペという選手が退場処分を受け、
それに抗議したモリーニョ監督まで退席処分を受けるという荒れ模様。

10人になったレアル・マドリーを相手にバルサのメッシが2ゴールを決め、
見事アウェーでの勝利となったのだった。

試合終了後、記者会見でレアル・マドリーのモリーニョ監督は恨み節全開。
バルサに有利にジャッジした、ということを訴えるがために
何度も登場したフレーズが "¿POR QUÉ? (なぜ?)"

あまりに繰り返されるので、友達の一人が
「これ絶対明日のスポーツ新聞の一面トップだね〜」と一言。
その予想は見事的中し、ご覧の通り。

http://www.marca.com/multimedia/primeras/11/04/0428.html

やはり因縁の対決。
マドリーとバルサが対戦する際は、必ずと言っていい程
ピッチの外での舌戦も話題になる。
試合後の挑発的なモリーニョ監督の発言に対して感想を聞かれた
バルサのジョゼップ・グアルディオラ監督はノーコメントを貫いたが。

さて、来週5月3日はチャンピオンズリーグ準決勝の第二戦。
バルセロナの本拠地、カンプ・ノウでの決戦となるわけだが、
18日間の間に4回行われる"エル・クラシコ"の最終戦となる。

第一戦目をアウエーで制して有利になったバルサだが、
そこは宿敵レアル・マドリー。何が起こるかわからない。

どっちに転んだとしても、街の様子がどうなるか見物だ。
また来週レポートすることにしよう。

25 April 2011

サン・ジョルディは晴れ男?


今年もやって来た、4月23日、Sant Jordiの日。
カタルーニャ版バレンタインとでも言おうか。
詳細はコチラ。もう一年も経ってしまったことに驚く。

予報では連日雨だった週末のはずで、前日も浮かない天気。
が、この日、目を覚ますと晴れ間が!
バルセロナ中の本屋業界と花屋業界がてるてる坊主を吊るしたか、
はたまた守護聖人サン・ジョルディの奇跡か、
とにかく雨が降らなかったことに大勢の人々が感謝したに違いない。

一歩外へ出ると、至る所にバラの花と本のブースが並ぶ。
やっぱりこの日は一年の中でバルセロナが最も美しい日だと思う。


今年はSemana Santa(イースター)の休日と重なったせいか、
去年よりも人出は少ないように思えた。
それでも、自転車で颯爽と中心街に出ようとしたつもりが、
人だらけで全然前に進めない・・・。

 
今年の売れ筋はというと、出ました村上春樹の『1Q84』
この小説、前々から海外だと「キュー」の部分の遊びが通じない・・・
と思っていたが、 未だにこちらでどう呼ばれているのか不明。


スペイン語版の発売が割に最近だったせいもあって、
どのブースでもいい場所をキープしていたし、
実際手に取っている人をたくさん見かけた。
私は川端康成とか三島由紀夫についつい手が伸びてしまうのだが・・・。
こちらのムラカミ人気はとにかく絶大なんだな。
むしろそれしか知らないってだけなのかもしれないが、
最近はけっこう日本の作家の本が翻訳されているので色々読んでほしいわ、
というのが本音。

次にお花部門だけれど、こんなブースを発見。


バラの花束と一緒に添えられているのは・・・
そう、折り鶴。
売り子の人々のTシャツも『がんばれ、日本!』


さて、Sant Jordiに織り込んで日本の話題がやたら登場するのはなぜかというと、
実は今回のSant Jordiのテーマが「日本とカタルーニャの団結」だったからだ。
もちろん、震災後をうけての日本への哀悼の意と支援を表明してのもの。

当日、サグラダ・ファミリア「生誕の門」前では、
カタルーニャ州政府主催の式典が行われ、要人のスピーチ、
歌や踊りのセレモニーはカタルーニャ公営テレビTV3で生中継された。
その様子はコチラ↓

最後に演奏されたパウ・カザルスの『鳥の歌』を聞いて育った人々は、
人の悲しみを知っているのかもしれない。

こういうことを震災から1ヶ月ちょっとの間に企画して実行する、
いざという時のひとりひとりの行動力には驚かされることが多い。
サグラダ・ファミリアがいつまで経っても完成しない謎がまた深まったが。

この気持ちを受けて、私はどう応えようか?
ひとまず本を抱えてベッドにもぐり込むのであった・・・。






22 April 2011

バースデイ・ピクニック♪


この前の日曜日、17日は友達の誕生日。
そこで、セルフ・プロデュースのピクニックに招かれた。


こちらが主役のLuisa.
イタリア人だけど、バルセロナ在住前は7年中国に、
そして3年オーストラリアに、と世界を転々としている彼女。
曰く、お誕生日会にピクニックをするのはオーストラリア式だとか。
指定の場所、Poble Nouの公園は目の前がビーチ。
風が強いながらも、ビーチで日光浴する人々を見ながらの乾杯は心地よい。


靴でこうして押さえてないと、カップがどこまでも飛んでいってしまったが、
ロゼのカヴァはお祝い事にはぴったりの色合いだ。


各自持ち寄った一品にも個性が溢れる。
カタルーニャ人Nuriaはジャガイモのトルティーリャ。
これは「スペイン」オムレツじゃないと言い張っていた。
私の友人、スウェーデン人のLisaはベジタリアンなので、
ドライトマトとオリーブのマフィン。なんともメルヘンなお味 。


そしてデザートはLuisa特製のティラミス。
以前私に作り方を教えてくれた時より腕が上がってる!?
ヨーロッパ大陸に戻り1年。イタリアの血が蘇りつつあるのか・・・。

どれもこれもおいしい上に大量。
これじゃあ夜もいけるね、と話しながらの散会。

この日のゲストは彼女の友達とあって年齢層やや高め。
初めて会う人もいて、いつもとは違った話を聞け興味深かった。
海もあって緑もある所に声をかけたらすぐ集まれる環境、
これこそが何よりの贅沢!と言える一日となった。

18 April 2011

"エル・クラシコ"第一戦


16日、バルセロナの街はなんともいえない緊張感と高揚に包まれていた。

というのも、この日からわずか18日の間に、
なんと4度ものサッカー、バルセロナ対レアル・マドリーの対戦、
いわゆる伝統の一戦"エル・クラシコ"が行われるのだ。


その第一戦となったのが16日。
リーガ・エスパニョーラの第32節だ。
これを見逃すまいと友人と近所のバルに試合開始1時間前に向かったのだが、
すでに時遅し。バルは人で溢れかえり座れる席がない・・・。

テレビのあるバルを求めてしばし彷徨うもどこもいっぱい。
もうどこでもいいから・・・と思っていたところでようやく発見した
超ローカルなバル。こんなことがなければ絶対入らないだろう、
新橋チックな香りのする大衆酒場。

が、意外も意外、
このバルの店主、かなりのバルサ、もといサッカーファンだった。
バルの奥にはバルサグッズがキレイに並べられ、
自身が 地元のサッカークラブでプレーした時のものと思われる写真も
壁にバッチリ飾られている。

店主だけではない。
おそらく名物と思われる常連客のおじさん発見。
誰と話すというわけでもないのに、
独り言の域を超えた大声でサッカー解説をしている。
なぜかこのおじさん、私の横に席を移動。


そして試合開始直前、突如立ち上がったかと思いきや、
勝手知ったるバルといわんばかりに備え付けてあった棚を開け始め、
バルサの優勝旗を取り出し、テレビ画面の下に取り付けたのだ。
大分飲んでいるのか、乗っかった椅子がガクガクと揺れていて、
見ているこっちが冷や冷やしたが、
おじさん、右がずれてる、いや左、と
かなり配置にこだわってなかなか椅子から降りようとしない・・・。

見かねた店主が、テレビのチューナー落とすなよ〜、
バッチリだ〜といなすもまったく効力なし。
てか、店主、いつの間にかバルサのユニフォームに着てるし・・・。
背中には自分の名前がきちんとプリントされている。
なるほど、彼はJordiおじさん。

試合開始後はいつものとおり。
バルサに気合いを入れるため、バルを挙げての大声援。
常連おじさんの声のボリュームは増すばかり。
それに相まって手拍子も飛び抜けた音量。
次第に私の左耳がやられていくのを感じた・・・。

試合は前半、圧倒的にバルサがボールを支配していたものの、
なかなか得点に結びつかぬまま後半へ。
そして後半開始直後、レアル・マドリーのアルビオルが
ペナルティーエリアでバルサのビジャを倒し退場処分。
マドリーは10人で試合を戦うことに。
この時のPKをメッシが確実に決め、バルサが一歩リード。

こうなったらバルの営業も何もあったもんじゃない。
Jordiおじさん、気づけば一番前の席に陣取って観戦している・・・。

残念ながら試合はその後、バルサのGKダニエウ・アウベスが
レアル・マドリーのマルセロを倒したという審判によりPKとなり、
それをクリスティアーノ・ロナウドが決め引き分けという結果に。

一緒だった友人はバルセロナで"エル・クラシコ"を観戦するのが初めてで、
バルセロナの勝利後に街に繰り出す人々を見るのを楽しみにしていたのだが、
それもおあずけとなった。

さて、第2戦は次の水曜日。スペイン国王杯だ。
一発勝負のこの試合、第一戦より緊張が高まるのは間違いない。

隣のおじさんのおかげですっかり耳のやられた私。
次回は耳栓を持参する必要がありそうだ。

13 April 2011

Collan in Barcelona


なんと、いつも日本でお世話になっている
中目黒の美容室Collanのミヤザワさんとなおさんがバルセロナに!

しかも、遠いところ到着したばかりなのに、
ご好意により私のピソでカットしていただくことに。

今の部屋は壁が真っ白なので、
白を基調にした内装のcollanの雰囲気に似てなくもない?と、
しばし妄想するが、床に敷き詰めた新聞紙を見て現実に戻る。

この感じ、ちょっと懐かしい。
自宅でのカットって、子どもの頃母に切ってもらって以来。

あ、でも何が違うって、やっぱり空気が違う!全然違う!
だって、ここ、バルセロナだものーーー!!!空が青い!
いや、ようこそバルセロナへ!ってホントに叫びたくなった。

大変な中、ここに来ていただいて感謝。
日本から来た元気な人たちの姿を見て、
ここのところ張りつめていた気持ちが和んだもの。


というわけで、カットの後は、カヴァで乾杯!


場所はピカソ美術館前の老舗、El Xampanyet.
ミヤザワさんにはかれこれ10年程髪を切っていただいているものの、
こうやってプライベートで飲むのは初めて・・・。
実は・・・ちょっと緊張していた。

しかしながら真っ昼間から煽ったお酒のおかげか、
すっかりいい気分になれた、といういつものパターンに。

それにしてもこうして海を越えて髪を切ってもらったり、
怪しい場所にお連れして一緒にお酒を飲んだり、
人と人との縁は予測不可能で、だからこそおもしろい。

いつものように課題の締め切りに追われる生活だったため、
大しておかまいもできなかったのが悔やまれるが、
ここで会えたんだもの。またどこででも再会できる気がする。

私としてはCollan Barcelona店を切望するところだが、
多くの人を幸せにできる美容師さんを独り占めするわけにはいかない。
ひとまず日本にいるみなさま、気分を変えてステキになりたい時は・・・
ぜひ、足を運んでいただきたい。

Collan
目黒区東山1-25-6
TEL: 03-3760-5019

11 April 2011

週末ハイジ気取り♪


先週末、バルセロナ市内から車で2時間程の村、Bagàに行って来た。
誘ってくれた友人によると、ピレネーを望む山間の村。
まだ雪も残っているだろうからスノーブーツに寝袋があるといいだろう、と。

そんな言葉を真にうけて、
当日集合場所に寝袋をつめた大荷物とレインブーツ姿で現れたのは私のみ・・・。
半袖姿に軽装の全員からさっそく失笑を買う。

それもそのはず。この日は快晴。もはや初夏の空気が漂うバルセロナ。
村に着いても、雪が残っていたのは遠く望むピレネーのみ。
おまけに滞在先は友人の親所有のアパートメントなので寝袋はお蔵入りとなる。


ま、そんなことでめげている場合じゃない。
この日のメイン・イベントはバーベキュー。
シーズンが終わりに近づくCalçots(カルソッツ)を思う存分食べるという計画。
薪をくべるのは男性陣に任せ、女性陣はPan amb tomàquet作り。


やっぱりカルソッツは日本の長ネギにしか見えない。


最近日本の番組でとんねるずのノリさんがバルセロナに来て、
カルソッツにお醤油をつけて食べてたとか。。。その気持ちわかる。
そうなると鴨肉とおそばが合うに違いない。

が、これをロメスコ・ソースにつけるとカタルーニャの味になるから不思議。





食べる時のお行儀の悪さもカルソッツの醍醐味のひとつと言えよう。
手が炭で真っ黒になるのも気にせずひたすら口に運ぶ様子が、
なんとなくカニ食べ放題の光景と重なって見えたのは私だけか・・・。

一年分のカルソッツを蓄え、すっかりお腹がふくれたメンツでお散歩に。
回りを取り囲むのは山と小川。
お腹は重いが、思わずスキップしたくなる牧草地が続く。


馬の家族がこれまた画になる。
かつて日本再西端の島、与那国でそういえば馬の世話をしたことあったよな。
それでも自然慣れしてない私・・・。こういうとき弱さを実感する。
おっかなびっくり牧草を口に運ぶとお愛想程度に食べてくれる親馬たち。


そんなこんなでいい空気を吸える幸せを感じた週末。
太陽のもと、2日間飲んで食べて歩いてを繰り返した結果、
くっきりとデコルテラインに丸首シャツの跡が ・・・。

レインブーツと冬用コートがますます不似合な帰宅となったのだった。

06 April 2011

感無量の引っ越しそば


タイツ男の難を逃れたものの、
どうなることかと危ぶまれた新居&新同居人探し。
ふさわしい人というのはおのずと現れるものだ。

今度の同居人は親ほど年の離れたチリ人女性。
30年以上もバルセロナに住んでいるとのことで、
もはやカタルーニャ人と言った方がよいかもしれない。

私にとっては同居人が1人!というところがかなりの決め手になった。
もう大勢で済むのはこりごりだったし、若いのもダメ。
ピソの近所で洋服屋さんを営んでいるので家にあんまりいることもない。

というわけで、お互いの合意のもと話が成立。
めでたく引っ越し先が決まったわけだ。
引っ越しそばはご近所さんに配るでなしに、
引っ越し前、その喜びを噛みしめるために自ら食したもの。
なぜかシンガポールから友達がおみやげとして持って来てくれた
CHOYAの梅酒とともに祝杯となった。

引っ越し屋などに頼む資金源もなく、作業はひたすら人力。
3月後半は、晴れた日を狙ってちょこちょこと新旧ピソを往来することに。

本格的な引っ越し当日と決めた日は、
朝からスーツケースと巨大な鞄を抱え、午前中に2往復。
新しいピソはBornという地区で、
小さなギャラリーやセレクトショップなど立ち並ぶ
けっこうオサレ〜なところ。
いくら近所とはいえ、そんな中を自分より大きな荷物を抱えた
小ちゃいアジア人がよたよた歩くだけでえらい目立つ。


人の目と荷物の重さでどっと疲れて旧ピソに戻り放心していると、
クラスメイトから電話が。
すると午後から手伝いに来てくれるという。


引っ越しが決まった時点で手伝いに来てくれるとは言っていたものの、
来ると言ってたいてい来ないのがスペイン人。
かなり当てにしていたがホントに来なかったらどうしよう・・・
と不安があったところでの助け舟にうれしさ倍増。

さらにもう一本の電話。
今度は全然来る気配もなかったクラスメイトの飛び入り参加。
こういう人の温かさには感謝とともに頭が下がる。
思えばここまでたどり着くまでの不安な毎日を支えてくれたのもこの人たち。













結果的に4人となったわけだが、
その後、スーパーのカートを借りるという荒技に出たおかげで、
女性陣は街中を進む大荷物のカート姿に大笑いしてたのみ。
追加の2往復であっという間に済んでしまった。

その後のビールがどれほどおいしかったことか!


新しい部屋からの眺め。
中央にはサンタ・マリア・デル・マル教会が見える。

これでやっとすべてのごたごたから解放された。
この空のようにさわやかな新生活を始めたいものだ。

04 April 2011

ピソ探しより人探し


やむを得ず交替した新しい部屋にはこんなインベーダーのペイントが。
お家騒動の件でめっきり落ち込んだ私にとって、
宇宙人などよりよっぽど怖いのは人間の方だよ、という話。

結局3月に出て行くと言ったフランス人は出て行くのをやめ、
故郷に帰るために1ヶ月バルセロナを離れるイタリア人の部屋に
ちゃっかり間借りし、フランス人のいた部屋には新同居人のメキシコ人が入居。
まったくみんな大家の知らないところで好き勝手してるのに、
最もまともに暮らしてた(と確信している)私がなぜ被害に遭わねば・・・。
 
物理的にも精神的にも窮屈な中で引っ越し先を探し始めたわけだが、
傷心に泥を塗るような事件が・・・。

つい先日まで自分が同居人を募集していたloquo.comというサイトにアクセスし、
今度は自分が同居人候補としてエントリーすることに。
物件は毎日山ほどアップされるが、なかなかこれぞ!というものはない。
いいなぁと思うところにはとりあえずメールを送ってみるも、
返事がないことも少なくない。

そんな中、返事が来た一件が私を恐怖の底に陥れた。

一通目はごく普通の内容で、家賃等の条件の詳細だった。
立地が良い上に家賃が比較的安い。
何よりも同居人が一人なら静かに違いない。
と思った私は部屋を見学させてもらえないかと返事を送った。

すると・・・
とんでもない内容の返事が戻ってきたのだ!

以下、ざっとこんな感じ。(フォントも再現)


えっと、タイツ(レギンスもしくはレオタード)についてまぁこれは習慣的なことについてなんだけど、僕はあくまでも同居人を探していて、恋人とか性的関係を望んでいるんではないから。ただ、君が家で普段の格好としてタイツ(レギンスもしくはレオタード)を身につけるかってことなんだ。ちろん、服や長い衣類でお尻を隠す事なしに。もし寒くて必要なら、下にパンストをはいても、まあ問題ないけどね。
信じがたいだろうけれど、これが両者にとってうまくやっていく方法なんだ。
まぁ変わった方法だけど、これが僕のやり方だ。もし君がこれを好むなら、君は僕の同居人としてふさわしいってことだよ。
もし君が家でこういう風な格好をするのが好きだっていうなら、もしくは不都合がないっていうなら、ぼくは君を選ぶよ。

さらに・・・

あっ、もしタイツ持ってなかったら、貸すからね!


メールを一読してから、一体どれだけの時間が経ったのだろう・・・。

これ、40歳カタルーニャ男が至極まじめに送って来ているのだから。
やっと現実が飲み込めた瞬間、全身に鳥肌が立つのと同時に、
こういうのをうまい具合に引き当ててしまう自分の変態オーラに脱力。
もうここまでくると笑うしかない・・・。
いやーなんだか突き抜け過ぎだよ、アンタ!!!って。

今度こそ大事なのは立地や家賃、部屋の大小よりも「人」!
と意気込んで学生でも無職でもない、
仕事をしていて落ち着いた同居人候補、を見つけたはずだったのに、
さっそくコレだよ・・・。

こういう趣味の人もいるものなのだとまた一つ勉強になったが、
それを分かち合える同居人を募集するのに、
まともなサイトに投稿しちゃった彼をちょっとせつなく思った。

もちろん、返事はしなかったし、ピソの見学にも行かなかったけど、
もし行ってたらと想像すると・・・。
網タイツ姿で監禁されている自分の姿が浮かんでは消えてゆくのだった。

01 April 2011

めぞん一刻崩壊


思い起こせば1月、
めぞん一刻崩壊の危機が迫っているとお伝えしたが、
すべてが終了した今だからこそ、その後日談を話そうと思う。

結局1月中は、同居人のコロンビア人とも
ピソの大家である友人とも具体的な話し合いをしないまま月日が経った。
というか、このまま放置プレーを決め込んだらどうなるか様子を伺っていた。
事態はこう着状態か、このまま沈静化するかとまで一時は思った。

が、2月に入り別の同居人のフランス人が3月に出て行きたいと言い出した。
となると、一応まだピソの管理を任されていると信じていた私は、
電話をしても出ない大家である友人に、億劫ながらも
「新しい人探すためにネットに広告出すよ」とメール。
当然ながら返事なし・・・。
それでも3月に誰も入居者いなくて私たちの家賃をあげる、
など言われたらたまらない。とにかく同居人探しを開始した。

例のごとく見学希望者からのメールや電話に応対し、
部屋を見せたりと涙ぐましい不動産業。
そしてやっとこの人!という人物を見つけたので、
一応同居人の同意をと思いイタリア人やコロンビア人に話す。

そしたらどーですか!コロンビア人。
「そういえば偶然にも昨日M(大家)から電話あってさ、
僕の名前で同居人募集の広告出したって。
すでに何人かから連絡あって、今日さっそく部屋の見学に来るよ・・・」

はぁ???またしてもはぁ???
頭の中がはてなで一杯になる。

つまりは、私が同居人探しを買って出ていることを知っていながら、
もうあんたはお役御免よ〜とばかりに
大家Mはコロンビア人にその任務を託したことに。

それにしても平然としてるコロンビア人。
自分は任命されたまでだから〜みたいに言ってるけど、
私はもう別の人に返事する直前なんだよ!と答えるも、
「Mと直接話した方がいいよ」の一点張り・・・。

即刻Mに電話。
そして激しいやりとり。
つまるところ「もうピソのことはコロンビア人に任せたから」
そしてさらに追い打ちとばかりに、
「3月1日にはコロンビア人と部屋替わってね」と・・・。

何言っちゃってるの!??聞いてないよ!!!
んなことできるか!って言ったのに、
「ゴメン、もう無理・・・」の繰り返し・・・。

そしてその夜、怒りと涙の緊急住民会議となったのだが・・・。
そこで判明したのは、コロンビア人、
すっかり3月には部屋の交換をする確約を大家と取り付けていたということ。
この時点で何かがプツリと切れた私はこんなピソなぞ出て行ってやる!宣言。
だが、3月は数日後に迫っている。
今からピソ探しをするのは難しいしそんな時間ない。
なんとか4月まで部屋の交換を待ってくれないかと提案。
するとコロンビア人、
「2週間なら待てるけど、カノジョも待ってるわけだしそれ以上は無理」と。

フランス人、イタリア人も援護してくれたものの、
コロンビア人の態度はまったく変わらないどころか、
「自分が別に望んだわけじゃないけど、大家Mの結論だから」
と飄々と言ってのける。
そして、「僕が契約しているのは君たちじゃなくてMだからね」と。

そうですね、あぁごもっともですって納得できるか?
「僕たち友達でもないけど敵でもないんだから。僕を恨まないでね」
とさらに追い打ちをかけて来るコロンビア人に返す言葉もなく・・・。

結果、3月2日に部屋の交換はつつがなく行われたのであった。
当日、リビングにはコロンビア人と私の荷物が山積みとなり、
まるでPeter Menzelの "Material World"のようだった。

交換した部屋はベッドが部屋全体を埋め尽くし、
箪笥もなくモノで溢れ足の踏み場もないことに・・・。

翌日にはコロンビア人のカノジョが引っ越して来て、
「ありがとう」の一言もなく普通に暮らし始めた。
総勢5人での共同生活。
あぁ、ここはユースホステルか・・・。

屋根のある家があるだけ贅沢とも思えるが、
これ以上大家Mに家賃を払うのだけは許せなかった。
そして新たなるめぞん一刻探しが始まるのだった。